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ガイアックスのまわりにいる楽しい人々のご紹介です。今回は、箱根の芸者ショー事業の責任者、西村環希さんが、どのようなビジネス経験の遍歴を経て、この事業をマネジメントしているのか、をご紹介していきます。今回は、環希さんが、インターンとしてお仕事をしていた様子をお話いただきました。インターン離れしたお仕事への取り組みをされています。

西村環希

MeetGeisha 事業責任者
1996年 大阪府生まれ。立命館大学在学中に上京、ガイアックスに入社。大学在学中から観光分野・訪日旅行者向けのサービスに従事している。2019年に日本一の芸者衆を誇る箱根芸者衆とタッグし、箱根の観光施設の立ち上げ。新しい「芸者文化」の創生にチャレンジし、若い層や海外向けに「ショー」や「オンライン配信」「オンライン飲み会」を提供。

公式サイト: https://www.meetgeisha.jp/
Twitter: @tamaki_nisimura

上田祐司

株式会社ガイアックス 代表執行役
ガイアックスでは、「人と人をつなげる」をミッションに、ソーシャルメディアとシェアリングエコノミー事業を展開。また起業家が集うスタートアップスタジオという側面も持ち、社会課題を解決するための事業づくりサポート、投資を行う。シェアリングエコノミー協会代表理事。

公式サイト: https://www.gaiax.co.jp/
Twitter: @yujiyuji

上田

環希さんが芸者ショーを 始められるまでの話を聞いていますが、今日も前回に続き、聞いていきたいと思います。
Gaiaxの上田です。

環希

みーと芸者西村です。
よろしくお願いします。

上田

前回も、色々と聞かせていただきました。
無事Gaiaxに入るぞ、というところまでお聞きしていたと思います。
まだ学生さんであると。

環希

そうですね。
入った時点で、大学3回生からのスタートです。

上田

なるほど。大学3回生だけど、社員であるという、そういう謎の時代の話を聞いていきたいと思います。
それまでは学生でインターンでしたけど、もはや学生だけど立派な正社員ということで、 あ、正社員ではないか?

環希

契約社員ですね。

上田

契約社員ということで。
とはいえ社員ということで立場も変わったのかなと。 京都に戻ったのでしたね?

環希

その時は、京都に戻らざるを得なかったです。

上田

まだ単位を取っていないですもんね。

環希

まだ単位が半分残っている状態でした。

上田

すごいですね。それでよく社員にするよね。

環希

そうですね、 誰に向けた言葉か知らないですが・・・(笑)、

上田

それで、どんな感じで仕事をしていたのですか?

環希

そうですね、その時は、チーム的には、全チームは東京にいて、私一人だけ関西に残りつつでした。
大学の授業に行きながら仕事をしていました。
その時は3回生だったので、1回生、2回生で頑張って授業を取っていたとはいえ、その時半年で24単位ぐらい残っていました。
Gaiax側とはフルで働きますと約束もしているし、大学の単位もフルで取らなければいけないということで、Gaiaxって時間に縛られて働くような 働き方ではないじゃないですか。
とはいえ8時間は確保しないと というのは思っていたので、午前中は学校に行って、昼からは仕事、というスケジュールにしていました。

上田

なるほど。仕事内容はどんな仕事だったのですか?

環希

内容は引き続き、TABICAの インバウンドの仕事をしていて、体験ですね、 インバウンドの旅行者向けのツアーや、体験を作って売る ということをしていたのと、あとは英語の体験なので、通訳さんが必要なので、ガイドチームを作って育成する ということをやっていました。

上田

それを東京と京都とで?

環希

そうです、東京と関西とで。
関西は地盤がゼロだったので、一からの立ち上げという感じでした。

上田

確かに。一からの立ち上げとは、ガイドを集めること?立ち上げ?
他に、どのようなことが 立ち上げた時の仕事になるのですか?

環希

他は、何が売れるかわからない時だったので、ただ、私自身リソースが自分の体しかないし、しかも学校へ行きながらという時だったので、その時は結構めちゃくちゃだったなと、当時を振り返ると思います。
体験の作り方というと、体験提供者を見つけて、例えば豆腐作りの体験を作りたかったら、 豆腐屋さんのホストさんを見つけて、ツアーの行程を組んで

当時の仕事

環希

時間や料金を決めるなどをして、公開する。
そして予約が入る、という順序が普通なのですが、その時は、もう時間がないと思ったので、 まずページだけ作る。
予約が入ったら体験提供者を見つける みたいなことをやっていました。

上田

アグレッシブですね。

環希

京都中を自転車で 駆けずり回ったことを覚えています。

上田

体験はざっくりとだけ書くということ?

環希

ざっくりとだけ書けます。

上田

一回、枠組みだけ書いておくみたいな?

環希

そうです、料金と体験工程も、ほとんどざっくりは決まっているというか、東京ではこういうのがあるな、というのはあったので そういう内容を書いておいて、体験提供者の名前などは違う名前を書いておく、という感じでやっていました。

上田

でも、体はひとつしかないから 準備がしっかり出来ないから、そういうやり方ではあるとは思いますが、一方で、後工程を楽な状態にして 仕事をしているわけではないので、忙しくなったら急に忙しくなるよね?

環希

そうです。大変でした。
ぎゅうぎゅう詰めになる時には ぎゅうぎゅう詰めになるという感じです。
予約が入り、予約日の2日前に 体験提供者を見つけるという事もありました。

上田

ちなみに、当時、月間でどれ位の お客さんが来ていたのですか?多い時で。

環希

一番最初のフェーズの時は それほどいなかったです。
10人、20人もいたかな・・・ という感じでしたけど、一番多い時で言うと、400人、500人位いました。 東京と関西合わせて。

上田

なるほどね。
始めは10人、20人位から、徐々にお客さんが増えていったということですね。

環希

そうですね。
最初はそういうニッチな体験、豆腐作りや蕎麦作りなどをやっていたのですが、そこから売れるものは もうちょっと王道だなという風にシフトして、ウォーキングツアーや飲み歩きツアー、自転車で街中を走るツアーなど、そういうものにシフトしていきました。

上田

そういうものは、どういう意思決定というか、どういう風に情報を集め、 意思決定したのですか?

環希

情報を集めたのは、やはり私たちが一番最初に始めたわけではないので。
何年か前から、インバウンド向けに体験を売ってらっしゃる会社さん とかもいらっしゃったので、そういう会社さんが作っているツアーなども 私たちでやってみようかと、それを真似というか、アイデアを頂いて、作ったら売れ出したので ここに注力していくべきだ、という感じでした。

上田

その辺りは、上司など相談する人には、例えばどんな距離感で、 どれ位の相談をしていたのですか?

環希

上司という感じだったのかな、そんなことを言ったら怒られそうですけど。

上田

今言っていた上司は、誰を指していますか?

環希

高田さんです。

上田

高田さんね、はいはい。

環希

こういうのを作れという感じでもなかったです。
これぐらいの数字でゲストを集めよう、関西でも集めようというKPI、 目標だったと思います。

上田

どちらかというと数字管理はするけれど、 中身はよく分からないみたいな、そんな感じ?

環希

そうです。とりあえずやれ、みたいな感じです。

上田

とりあえず売上上がるの? 上がるならいいよ、上がらないなら何とかしろよ、みたいな感じ?

環希

そうです。本当にそうでしたね。

上田

それでは、結構分からないですよね。 手探りと言うか。

環希

手探りでしたね。本当に手探りでした。
なので、一番最初に関西でそういう系を作ったのは、大阪かな?あ、京都ですね。 京都での飲み歩きツアーか何かをやったんです。
そのツアーが、東京で他の会社さんがやっていて 売れていたので、関西でもやろうかと言って。

上田

なるほどね。タイムマシーン系?
東京からしばらく遅れで関西で売上が上がった?

環希

そうですね。

上田

それはうまくいった?

環希

うまくいきました。 載せたら載せただけ売れるみたいな感じでした。

上田

環希さんはどんな気持ちになった?

環希

嬉しかったです、すごく。
やっと当たった!!という感じでした。
今まで体験提供者を見つけて、ガイドさんを育成し、やっと作ったけれど全然売れない、みたいな事が続いていた中で、こんなに簡単に売れたんだ、みたいな感じで、すごく嬉しかったですね。

上田

環希さんもそれは同行されたのですか?

環希

はい、最初は私がずっと同行してました。
京都に帰ってきたばっかりで、そんなに京都のことも当時は全然詳しくなかったので、街を練り歩いてどの辺がいいか、と。
ツアーを作る時は、お店を決めるだけではなく、やはり道中もずっと楽しくないと飽きてしまうなど、そういう要素もあったりするし、欧米向けに売っていたので、 彼らは歴史の話がすごく好き。
今まで高校生の時のことを、ずっとお話ししてきたと思うのですが、その経緯からも分かる通り、日本の歴史や世界史を全然勉強していないんですよ。
その中でも、必死に歴史のページなどを見つけて勉強して、ガイドが話すことを一から作って、やっていましたね。

上田

お客さんは喜んでくれました?

環希

喜んでましたね。
というか、私そこはすごく得意だと思うのです。
コミュニケーションを取るのは得意だと思うので、そこでギリギリカバーしている感じでした。
一度、「ここよく知ってるから」と言いつつ、全然違うお店へ連れて行ったこともあります。
その時は冷や汗でした。

上田

ギリギリでやっていますね。

環希

ギリギリでしたね。
温かいゲストさんたちで良かったです。

上田

何か、ゲストさんの思い出などありますか?

環希

ありますね。日本旅行に、ツアーをハネムーンのイベントとして 来ていた方がいました。

上田

責任重大ですね。

環希

そうなんですよ。
そういった人なども結構いました。
一度、ウォーキングツアーの中で、「エンゲージメントリングを渡したいから」、と言われて、ウォーキングツアー中に渡された方も、いらっしゃいました。
そういう思い出の大切なシーンなんだから、ちゃんと作らなきゃ、ということを思いましたね。

上田

それはやりがいがありますね。

環希

はい、ありました。

上田

ミスなく上手くいったのですか?

環希

そうですね、その時は。

上田

でも、そんなバタバタでやっていたら、ミスがあったり、もしくはミスじゃなくても さっき少し言っていましたけど、最初は作っても作っても全く売れないみたいな、そういう失敗のようなことは多かったんですか?

環希

失敗は多かったです。
でも最後の方になってくると、どんどん、どういう要素を折り込めば良いのか、 売れるのか、というのは分かってきたので。
ただ、作った上でもゲストさんから、「ちょっとこの道は」などのフィードバックも、ツアーの最後に受けていたので、 そういうフィードバックを聞いて、作り変えて、聞いて作り変えて ということを何回かやりつつでした。

上田

なかなか上手くいくことがなかった と言っていた中で、逆に言うとしんどい時間が長かったと思うのですが、その時はメンバーとは、どんな会話をしたり、どんな状況だったのですか?

環希

どんな会話だったかな・・・

上田

これやはり環希さん無理ですよ、みたいなことや、何やってくれてるんですか!? みないなことなど。

環希

最初の頃は、それほどメンバーがいなかったです。
高田さんと私、あとインターン生が2人、東京にいたぐらいだったので。
みんなが、お仕事をやり始めなので、上手くいくかどうかということよりも、目の前のことに食らいつくのに必死 みたいな状態だったと思うので、そういった部分は最初はなかったと思います。

上田

徐々にガイドが増えてきて、 話がややこしくなってきた?

環希

ややこしくなりました。

上田

最初の頃は、和気あいあいとみんなで楽しく、どうすれば売れるんだ?あ、注文きた!みたいな感じ?

環希

そうですね。
でも、最初の方は運営の私達の方で、ガイドを回すということをやっていたので、 やはり疲弊してきましたね。
私たちは作業しながら夜になったらツアーに出かけ、帰ってくるのは23時、0時過ぎでした。
みんな学校も行っていたので、学校に行きながら ガイドもするといった生活をずっとやっていると、ちょっとこれ疲れたわ、と。
週4、5でツアーに行っている時もあったので、疲れた、というのはあったかなと思います。
それでも予約は止まらないから行く、みたいな。

上田

予約は2週間前くらいから入れられるから。

環希

そうです、そうです。

上田

上司を始め、Gaiaxの面々はそこまで、英語が喋れるわけでもなければ、京都にいるわけでもないので。

環希

当の上司はツアーにも行ったことがない という感じでしたよ。

上田

そうすると、助けてもらおうという 発想すら生まれて来ないですよね。

環希

そうですね。もう数字だけ上げろ、頑張れ、と言うだけでした。

上田

なるほど。
じゃあ学校との両立も結構厳しかった?

環希

はい、その時はすごく厳しかったなと思います。 当時を振り返ると。
夜遅くまでツアーに行っていたり、 仕事をするということもあって、次の日の授業はやはり朝に入れたい。
昼からはツアーがあったり、昼からバチッと仕事したいというのがあったので、1限目に授業を入れると、9時から学校なので、起きられない日があったのです。
授業自体は、 出席を取らないようなものを選んでいたのですが、それでも単位ギリギリだな、という所まで来た時に、それに気付いた上司に、すごく怒られたのを よく覚えています。
「学校に行かないんだったら仕事なんて辞めてしまえ」 みたいなことを言われました。
それでもタスク量は減らないのになと、 私は思っていました。
その時は、時間のコントロールもですし、体調もあまり限度を知らなかったので、頑張りすぎて入院したこともありましたけど、今では限度は分かるようになったので 良かったかなとは思います。

上田

ちょっとこれ、 完全にブラック会社なんですけど(笑)、それは何歳ぐらいの時ですか?

環希

それが21、22歳ですね。

上田

今は何歳でしたっけ?

環希

今24歳です。

上田

24歳の人が、21歳の頃は若かったから、仕事の限度が分からなかった というのも、なんだか・・・

環希

本当に分かってるのか?みたいな?

上田

今だって若いだろ、という感じはしますけど。

環希

上田さんは、そういうことはなかったですか? 若かった時は。

上田

僕、創業直後もすごく働いていたのですが、人生押し並べて考えると、学生時代の方が激務していました。
特に、キャンプのボランティアをしていた時が 一番ひどくて、本当に一日3時間半睡眠で、枕元にリゲインみたいな栄養ドリンクを 箱買いして置いていて、本当は1日1本までなのですが、1日2、3本を飲み始めると、 飲まないと体が動かなくなってくる。
朝起きて、頭の上から栄養ドリンクを探して、飲んでから踏ん張って目を覚ますような感じでした。

環希

すごいですね。それで体調は壊さなかったですか?

上田

そうですね、結果としては、大きな体調崩しはこれまではないかな・・・
いやでも、面白いですしね。

環希

止められないという感じなんですね。

上田

でも入院をすると・・・
過労で入院だったんですか?

環希

その時は腎盂腎炎になったんです。
そこまで大きい病気をしたことがなかったのですが、腎盂腎炎になりました。
それまでずっと背中が痛かったんです。
それが初期症状だったのですが・・・
それで、なんか変だな、 と思って接骨院かどこかにマッサージに行って、でも治らないな、おかしいなと思いながら 過ごしていたら、次の日の朝起きたら起きれなくて、ヤバイと思って・・・
その時、ちょうどお盆だったので、病院が全然開いていなくて、着いた病院がすごく小さい京都の警察病院で、意識朦朧となりながら横を見たら、手首にタオル掛けられてる人も待合室に居ました。
どんな病院に来てしまったんだろうと思いながら 2週間くらい居ましたね。

上田

入院?

環希

はい、やや大きい病院に搬送されて、 そこから2週間位です。

上田

大変したね。

環希

大変でした。 しかもお医者さんも学生だと思っているから、入院しとけばいいやみたいな感じで、 元気になってもずっと出してくれなくて。

上田

なるほどね。こっちは仕事してるんだぞ、と。

環希

なので、パソコン持ってきてくれと言って パソコンを持ってきてもらったのですが、Wi-Fiが全然繋がらないし、テザリングをするけどすぐ切れる、みたいな。
治ってからがきつかったのを覚えています。

上田

仕事が溜まっていて?

環希

仕事がしたいのに出来ない、 といったフラストレーションもありました。

上田

ご家族とかは?
「環希お前どういう日常生活送ってるの?」 と怒られなかったですか?

環希

でも私のお父さんが 自分で会社を経営しているので、そういう働き方なんです。
多分私より働いている感じですね。
4時くらいには家にいなくて 帰ってくるのは23時くらいで、父も全然寝ていないような感じなので、 理解はあると思います。
良いのか悪いのかは分からないですが。

上田

なるほど、少し仕事の話に戻しますが、ガイドが増えてくるというところを、もう少し聞いていきたいなと思うのですが。

環希

作ればツアーは売れたので、事業チームとしては、次にガイドチームを、どれだけ育成できるのか、 というところだったわけです。
ただ、やはりガイドと言っても、 英語のスキルはかなり必要なので。
当時TOEICで言うと、900点前後の人を採用していたのですが、それでも喋るとなるとできない人もいらっしゃるので、帰国子女の子や海外に住んでいた子を採用すると、 やはり少ない。
どれだけそういう人たちに継続して組織にいてもらうか というところも、やはりガイドの内容は、 同じことを毎度毎度することなので。
長く居てもらうことが難しい というところで苦戦しましたね。

上田

確かに。英語が喋れるのは前提で、その上にしっかり喋る内容や、もっと言えばサービス精神があるかどうかとか ということも重要ですよね。

環希

コミュニケーション力が高い人。
知識みたいにベラベラ喋ることも出来ますけど、そういうことではやはり面白くなくて、面白いストーリー風に話ができる人を育成する、というところがキーだったのですが、そこがうまくできなかったですね、当時。

上田

ちなみにトライ&エラーはしていましたか?
こういうトライはうまくいったけれど、 これはうまくいかなかったなど。

環希

最初は、大体喋ることは決めてあるけれど、 自分で好きなこと話してください。
これは、良くなかったですね。全然駄目でした。
プライベートな話をすごくするなど。
学生さんも多かったし 私の周りで採用したりもしていたので。
そうすると「えー!?」という発言をしていたり、ゲストから後で聞くとそういった事があったようです。
全然勉強せずにツアーに望む人もいたので、マニュアルの精度をもっと上げようとはしていました。

上田

ゲストのレビューに出てくるのですか?

環希

出てきます。全然知識がないなど、 ひどく書かれたりしていました。

上田

学生さんだからと言うけれど そういう環希さんも学生さんじゃないですか。
なぜそんな差が出てくるのですか?

環希

何でだろう・・・
これをやればいいや、 という感じではなかったからですかね。
ゴールが、ゲストさんに満足してもらって、 レビューもいいものをもらい、やはり一番の思い出を ここで作って欲しいと思っていたから。
だからゲストさんによって話す内容も変えるし、書いてあることだけじゃなく、日々勉強して、新しい知識を入れようとやっていたし。
やはりガイドさんには、そこまでの情熱を伝えることは出来なかったのかな という風に思いますね。
アルバイトとして、必要最低限のことだけやって稼ぐ、みたいなところになってしまっていたのかな という風に、今考えると思いますね。

上田

なるほど。そんな中で、最低限のレベルという意味ではマニュアルの精度は 引き上げた方が良かったかなみたいなところですかね?

環希

もっと出来たと思います。

上田

他に、もっと出来たなと思うことはありますか?

環希

やはりガイドチームを作る時に、私自身が、ずっと関西の立ち上げを一人でやっていた、ということに固執しすぎていたのだと思います。
今でもそうですけど、 自分の見える範囲に全部を置いておきたいし、自分が見ないと気が済まないというところがあるな と思っていて、そこをもっと人に任せたり もっと人のアイデアを聞いたり、そういうことが出来ていたら、人数を増やしても大丈夫な体制に なっていたのではないかな、という風には、反省ですね。 それは今の課題で、今でもそれは思います。

上田

その大丈夫じゃなかったというのは、結構、退職率が高かったのですか?

環希

高かったですね。

上田

どれくらい?

環希

どれくらいだったかな?50、60・・・
1ヶ月、2ヶ月やって、変わる。
2ヶ月持たない人もいました。1か月で辞める人も。

上田

月次退職率が50%みたいな感じですか?

環希

そうでしたね。

上田

普通は退職率の比率って年間で見ますよ。

環希

でも、2年やっていたかどうかの事業です。

上田

あ、そうか。

環希

そうですよ。

上田

マネジメントに関しては、総勢大きい時は何人ぐらいでしたか? 関西関東合わせて。

環希

関西に20、30人いて、東京の方は15人前後いました。
なので45人です。

上田

それに本部スタッフがいると。

環希

はい、本部スタッフがいる感じですね。
本部スタッフは5、6人ですね。

上田

組織マネジメントは やったことがなかったと思うのですが。

環希

全く、はい。

上田

それは勉強などをしたのですか?

環希

すごく本を読みました。本も読みましたし、当時はアディッシュの杉之原さんに、クロスレビューをしてもらっていて、何かあった時は相談したりしていました。
一度、本当にうまくいかなくて、 もう本当に無理、となった時は、泣きながら、お願いします と電話したこともあります。
相談はしていました。

上田

杉之原さんは、 それを受け止めてくれていたのですか?

環希

受け止めてくれました。
泣いていた時は、「いったん公園を一周して来い!」と。

上田

受け止めたのか突き離しているのか 分からない対応だけど(笑)、

環希

帰ってきたら、当時色々な話をしてくださって。
彼女も組織を作る上で 大変だったことなども踏まえて、その上でこうだよ、ということを 話してくれたりしました。

上田

ちなみになぜ泣いてたのですか?その時は。

環希

何でだったかな、あの時は・・・
自分に腹が立っていたのだと思います。
何も上手くいかないのも自分のせいだと分かっているし、だからかな・・・

上田

いろいろ話を聞いていて、多分、こんな風に今も明るくお話出来ているというのは、全部自分のせいだという風に、事業リーダーらしく思えている所が良いんだろうな という風に見ていて思いますね。

環希

まぁでも、そうですよね。
なんとかやれ!という タスクの振り方をされていたとしたら、自分のせいにできなかったと思いますね。
でも、これが目標だよねと言われていて、それを好きな方法でやりなさい、 と言われていてできないのだったら、自分のせいでしかないなと思います。

上田

だからこそ色々反省もするし、学びもする。

環希

そうですね。

上田

これが人のせいだと思うと、別に 何の反省もしていないし、何も成長もしていないところ、きっと色々と揉まれ揉まれて、 いろいろな壁にもぶつかりながら、学ばれていらっしゃるんだなというのを、すごく感じましたね。

環希

そのような過酷な環境をありがとうございます、 ですね。

上田

学生をやりながら、社員にもなったぞ、という話を色々と聞かせていただきました。
これからも、事業が紆余曲折を迎えて行くのですが、今日は一旦ここまでとさせていただきたいと思います。
では環希さん、ありがとうございました。

環希

ありがとうございました。

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